どうでもいい
四十代を目前にして、あらゆる事がどうでもいいとようやく思える様になって来た。
どうでもいいと言うと、非常に無責任で投げやりな感じがするのだが、全くもってその通りである。
こうありたいとか、こうあるべきとか、自分と誰かを比較したりして、そんな事を思い続けて生きてきた訳だが、一向に気持ちが満たされる様子が無かった。
そもそも何者でも無い癖に、何者であるかの如く振る舞う自分の滑稽さに、いよいよ恥ずかしくて耐えられないのである。
そんな自分を恥ずかしいなどと思っている時点で、ちっぽけなプライドが滲み出ていて、心の奥底ではどうでもいいとは思えていない事が表れてしまっている。
どうでもいいというのは実に難しいものである。
早くどうでもいい境地に立てる様になりたいものである。
そんな理想を持ってしまった時点で、既にどうでもいいに囚われてしまっている訳で、実際は全然どうでもよくないのである。
うん、どうでもいいな。
責任のある仕事
何かの価値を生み出す事が、仕事の本質なのであろう。
一日十時間程工場に居て、必要があればボタンを押す。それだけが男の仕事である。
何の役割を担っているのかよく判らない人間からの指示を受けて、男は何の役割があるのか今ひとつ理解しきれぬボタンを押す。
男はそのボタンを押す事の意味も、その行為の先にどういった結果があるのかも知りはしないのだが、ただそのボタンを押したという事実に責任を持つ事だけが、彼に与えられた役割なのだ。
男は仕事に責任を持っている。彼がこの仕事を充てがわれてから暫く経つが、幸いな事に今のところトラブルや事故は起こっていない。
不幸にもトラブルや事故が発生し、怪我人や死者、企業に経済的損失が出てしまった時こそが、彼の真の出番なのである。
起こってしまった事象に対して、責任をとる事が彼の仕事だ。
彼はボタンを押した先で、万が一起こった問題に対する対処法を教育されていないし、それを行う権限も権利も持たされていない。
彼に与えられているのは、責任をとるという役割だけなのである。
彼は貧相なパイプ椅子にだらしなく腰掛けて、スマホゲームなんぞに興じて暇を埋めながら、ボタンを押せという指示が来るのを待つ。
昨日までは何も問題は無かった。明日はどうか判らないが、きっと今日も問題は起きないだろう。
そんな事を特に思いもせず、彼は何の疑いも無く、交代が来るまでの時間を、どの様に暇を潰して過ごすかしか考えていない。それが彼にとっては仕事なのである。
男は一体、この仕事で何を生み出しているのであろうか。
彼は絶えず富を生み出す巨大なシステムの中で、そのシステムの所有者や、その恩恵に預かる役職者達のリスクヘッジの為に存在しているスケープゴート。
多数の社員や役員達の立場や生活を守る為、組織という体裁を存続させ続ける為の保険として、人身御供となり捧げられるその日まで、来る日も来る日も彼はぼんやりとスマホを眺めて、ボタンを押せという指示を待ち続ける。
その仕事が生み出す価値を男は理解していない。
真面目と従順
我ながら真面目な性分だと自負しながら二十年程、社会人生活を送って来た。
あくまで自分がそう思っているだけなので、世間から見れば、私が真面目な人間であると評価する他人は殆ど居ないであろう。
そもそも、真面目とは何なのか。
仕事や生活等の物事に対して、真剣に向き合う真摯な姿の事を表すのだとすれば、私は至って不真面目である。
おおよそ私の生活態度は、他人からはマジメにやれと叱責を受けても致し方の無いものである事も、よく理解しているつもりだ。
真面目と書いて、しんめんもく。こちらの表す所は、本来の姿であるとか、ありのままの姿といった事だそうだ。
私は労働が嫌いで嫌いで仕方がない為、自分の御機嫌を伺いながら、自分に与えられた仕事に向き合い、業務をやり過ごす事で精一杯なので、職場の他人には大して興味も無く、馴れ合ったり、忖度したりといった事に精を出すなぞは、疲れるので真っ平御免である。
そんな自分の感情を包み隠す事なく、態度に滲み出させながらも、社会人として最低限の振る舞いで、何とかやり過ごしている私は、非常に真面目で実直な人間なのでは無いかと思っている。
然りとて、私も気が付けば良い歳こいたおっさんになってしまったが故に、如何に低姿勢で、目がそうは思っていない事を物語っている作り笑顔を振り撒いて、愚痴や不平不満を言わずに業務指示に従って居ようとも、最早従順な奴だと他人に思われないのである。
従順であるというのは、素直である事とセットで成立するものだと思う。
こんな浅はかな私でも、無為に生きて来た様で、その時間の積み重ねの中で、自分なりの世の中の捉え方というものが、ある程度既に出来上がってしまっているのである。
その自分自身がどう捉えるかをさて置いて、社会で何とかやっていく為に迎合している私の姿は、素直とは程遠い、卑屈と諦めに満ちた様相であると、客観的に見て自分でも感じる。
そんな存在は、目上の立場からして行動と結果は兎も角、従順とは思えないし、扱い辛い奴でしか無い。
物を知らない様な、まっさらな可愛げを演出して、世の中を渡って行こうとするには、既に私は歳をとり過ぎて手垢塗れになっている。
真面目で従順なんぞクソ喰らえであると思いながらも、それを望み、強要しようとしてくる組織に対して、微笑みを浮かべつつ、心の中で中指を立てている自分の内側にある真面目を失わぬ様に願いながら、今日という日を私はやり過ごしているのである。
表には出さないが、私はつくづく真面目な人間であると我ながら感心している。
AIに期待する未来
シンギュラリティを心持ちにしている。
天気の良い日である程に、憂鬱な気持ちが増すばかりのお馴染みの通勤路を歩く。
誰がやっても結果は同じであろう作業を行う為に、空は雲一つ無く晴れ渡っている訳では無かろうに。
そんな事を思いながら、見慣れた工場をとぼとぼと自分の持ち場に向けて歩く。
今にも発狂して、工場に背を向けて知らない何処かへ駆け出してしまいたい衝動を抑え付けながらも、家族の顔と生活の事を想い、自我を必死に保つ。
来る日も来る日も同じ様な思考を繰り返して、同じ場所に通い、同じ作業を繰り返し、最後にはストロングゼロを飲んで、明日も同じ一日を繰り返す事に思いを馳せては絶望する。
そんな毎日にうんざりしながら、職場の戸を開け詰所に入ると、其処には何時もの下らない馬鹿話や、仕事の段取りを話し合っている雰囲気とは打って変わって、昨日まで自分達の日常であった職業を一夜にしてAIに奪われて、そこに居る全員が、成す術もなく呆然自失となっている光景が広がっていた。
誰が何をする必要も無く、これまでに日々の業務の中で培われたデータを基に、全ての設備や機械が自律し、不平不満や愚痴も言わず、休憩も、休息も、交代も必要とせずに、黙々と最大効率で作業を進めている。
怠惰で、権利の主張が激しい癖に、生産効率の悪い、我々人間の労働者は、いきなりお払い箱となった。
幾許かの纏まった金銭を補償され、誰がやっても同じと思い、忌まわしく感じていた苦役から、我々労働者は唐突に解放された。
あまりの呆気なさに工場を後にした私は、取り敢えずコンビニでストロングゼロを数本購入し、海岸沿いに移動して、岸壁のテトラポットの上に腰掛けて、煙草に火を付け、ちびちびと酒を飲みながら、昨日まで内側に居たはずの工場を、外側から眺め見る。
確かに昨日まではそこで働いていた数千人の人間が、一斉に解放されたにも関わらず、何事も無かったかの如く、無数の巨大な煙突から相変わらず煙が立ち上がり、工場は今も操業を続けている。
自分の今後については一旦置いておくとして、あれ程憎んでいた苦役から解放された筈であるのに、無人で動き続ける工場を離れた場所から眺めていると、無性に寂しい様な、悔しい様な、かと思えば清々した様な、何とも言えない複雑な感情に襲われる。
ぽっかりと胸に穴が空いた様な空虚感に、今にも発狂して、何処かへ駆け出したい衝動に駆られるも、その衝動を阻む、私の時間と身体を拘束する仕事は、最早私を縛る事が無い。
あれ程欲しかった自由である訳だが、身を解かれてその自由を手にした瞬間、その自由を持て余して、それに押し潰されそうになっている自分が居て、我ながら大した奴隷根性であると感心して苦笑する。
ストロングゼロを飲み干し、おもむろにテトラポットの上で立ち上がり、水平線を眺める。
ここから水平線に向かって飛び込めば、或いは本当の意味で自由になれる様な気がした。
ふと気が付けば、私は見慣れた持ち場への道のりを、いつもの様にとぼとぼと力無く歩いていた。
どうやら現実はまだ、怠惰で、権利の主張が激しい癖に、生産効率の悪い、我々人間が機械や設備を操作して、工場を操業している様である。
私は今にも発狂して、工場に背を向けて知らない何処かへ駆け出してしまいたい衝動を抑え付けながらも、目の前に現れた職場の扉を開けて、今日も一日、いつもと同じ、誰がやっても結果は同じであろう作業に、うんざりしながら向き合うのである。
夜勤明けのストロングゼロ
十二時間に及ぶ苦役から解放されて、心身共に消耗し切った、満身創痍状態で工場の門を潜り抜けて娑婆に出る。
眠気で限界になっていた重い頭がその瞬間、一気に意識がクリアになり、目がバキバキに冴えるのである。
何度やっても決して慣れる事の無い夜勤ではあるのだが、この時だけは最高の気分を味わえるのが何とも言えない。
しかし、この夜勤明けハイは、工場の門を出た瞬間をピークに、時間の経過と共に見る見るうちに落ち込んでいき、十二時間後に再び同じ門を潜る頃には、生まれてきた事を後悔する程に鬱々とした気持ちにまで落ちていく。
天国と地獄の門は表裏一体である事を、夜勤の度に思い知らされるのである。
ともあれ、清々しい気持ちで工場を後にして、軽い足取りで一目散に向かうのはセブンイレブン。
店内に入り、他の物には一切目もくれず、最短の経路で目的のアルコールの棚から、お馴染みのブツを手に取り、二つある内の最短で会計が済ませそうな方のレジを、一瞬にして見分けて並び、速やかに会計を済まして外に出る。
疲れて休息を求める身体とは裏腹に、交感神経が優位となり、バキバキに覚醒した意識を鎮める為、168円で買えるドリンクのプルタブを、震える指先で引き起こし、コーヒーメーカーの横から失敬した、アイスコーヒー用のストローを飲み口に突き刺して、夢中で吸い付き、空きっ腹にアルコールを注入していく。
レモンだか、ライムだか、何とも言えないフレーバーで味付けされた、飲み易いのか飲み難いのか、いまいちハッキリしない液体が、炭酸の刺激と共に喉を通り、空っぽの胃袋を満たしていく。
ストローを突き刺した、500ml缶のストロングゼロを片手に、トボトボと自宅に向けて歩く。
美しい黒松が生い茂る、松林が見所である大きな公園を、早朝の澄んだ空気を全身に浴びて歩いていると、次第に酔いが回り始めて、多幸感に包まれ、フワフワとした心地で満たされた私には、最早苦悩も疲労も無く、この世界の全てに祝福された、無敵の存在と成りそこに存在していた。
圧倒的なサイズと数の煙突達の、煙を吐いている姿が背後に遠ざかる。早朝の公園を散歩する、引退したと思わしき老人達が、訝しげな表情で此方を一瞥しながら通り過ぎていく。
十二時間前の私であれば、これらに対して憎しみと嫌悪の感情が、とめどもなく沸々と溢れていた事であろう。しかし、今の私はこの世界の全てに祝福された完璧な存在であるが故に、目に映る何もかもが愛おしく感じられ、慈しみに満ちた視線で其れらを見つめる事が出来るのである。
そんな調子で、一本目を飲み切る頃には、私は揺るぎない慈悲の心に目覚めた、この世界全てが、くだらなくも、そして愛おしいと感じる、何か絶対的な境地に達したかの如く、ご機嫌の様相を呈して、自宅への道のりを、まるで宙を舞うかの様に滑らかに、フラフラと歩き続ける。
30分程歩いた頃、私の目前にはまたしてもセブンイレブンが現れる。
一本目のドリンクはとうの昔に空である。私は更なるご機嫌の境地を求めて、吸い寄せられる様に店内へと歩を進めて行く。
気が付けばまた同じ物を手にして、同じ様にプルタブを開けて、ストローを突き刺している。
二本目の液体を体内に注入し始めて直ぐ、私を支配するのは圧倒的な不快感である。
二口、三口と、二本目の液体を口にしていくにつれて意識では無く、身体の方からこれ以上はイケナイというシグナルを発し始めている事の表れだ。
過ぎたるは及ばざるが如し。自宅までの道のりを歩く間に、コイツを全て飲み切るのは、些か無理があると感じ、500ml缶ではなくて、350ml缶にするべきであったと後悔するももう遅い。
私は既に、その手にあるストロングゼロを飲んでいるのでは無く、ストロングゼロに飲まされている領域へ、気が付けば足を踏み入れていたのである。
ハタから見るに私の姿は、朝っぱらからストロングゼロを片手に、真っ赤な目を据わらせた、独り言をブツブツと呟きながら、ふらふらと千鳥足で歩く、小汚い作業着を身に纏った、不審者以外の何者でも無いのである。
気が付けば最寄りの駅前まで歩を進めている。時刻は午前七時過ぎ。真っ当なサラリーマン達が、通勤の為に7時16分発の新快速を目指して、小走りで改札に吸い込まれていく。
そんな人々を横目に、流れを逆らい歩く。心地良い解放感とほろ酔い加減はとうに消え去り、全身を包み込む倦怠感を抑え込むのに必死になりながら、へなへなとベンチに座り込む。
爽やかな一日の始まりである、早朝の街の様相を眺めながら、鈍った思考が鬱々とした気分を連れて来る。
道ゆく人々の顔に表情は見えない。残り十時間。遠目に少しだけ見える煙突達が、手招きしながら笑っている気がする。
立ち上がって私は、中身が半分残った缶をゴミ箱に放り込み、歩き出した。
やはり350ml缶にするべきであった。
中二病なおっさんの中年の危機
町の沿岸部に在る、広大な敷地を有する製鉄所へ、夜勤に向かうべく自転車を漕いでいると、巨大な高炉が、私を嘲るかの如く目前にそそり立っていて、まるで自分が足下で蠢く働き蟻の様に感じてならず、なんだか惨めな気持ちになる。コイツに殺されるのは甚だ不本意である。
寝不足の身体と、陰鬱な気分を引き摺りながら、必死に職場へ向かう働き蟻なのだが、ふと誕生日が近い事を思い出して、これもまた憂鬱な気分に拍車を掛ける。
気が付けば今年で私も37歳である。とんでもない事だ。うかうかしているうちに、無邪気な少年期や、眩しい青春時代は遠く忘却の彼方へと過ぎ去り、今や鏡に写るのは、家族の問題や病気、住宅ローンなんぞを抱えて身を持ち崩しそうになっている、死んだ魚の目をした中年のおっさんなのである。
体力のピークは過ぎ去り、若い自分の過信したツケが押し寄せるかの様に、次々と悲鳴を上げながら不調を来す身体。
自分はもしかしたら、何者かになれるかも知れないと、心の何処かで信じていた期待もとうの昔に失われ、向上心は無く、欲望も薄くなり、ただ一切が過ぎて行くのに身を任せているだけの空虚な心。
これが中年の危機というものなのかと思うも、自分の苦悩を、定義された流行病の如く扱われる事には、これはこれで少し癪に触る。
周りが全員、中二病なのであって、まともなのは自分だけだと信じていた、誰よりも中二病を拗らせていた中学生だった頃の精神性から、何ひとつ成長もしていない。
しかし始末が悪いのが、そんな自分が案外好きという、どうしようも無い自己愛による防衛本能が、みっともなく老いてきた自分を肯定して受け入れようとする所である。
憂いて、病んで、まあいいか。永遠にこの思考のループを悪戯に繰り返して抜け出せないのだ。
粉塵塗れの、汚れに汚れた製鉄所の構内を移動する。得意げに腕章を付けた職制が、構内の移動には不釣り合いな高級車を粋がって乗り回し、誰かの粗を探すのに躍起になっている。
高炉が炎を上げながら、見下ろしている。この場所において、どんな立場であろうとも、おしなべて働き蟻には違いあるまい。精々、高炉に踏み潰されない様に気を付けるしかない。コイツに殺されるのは甚だ不本意である。
四十にして惑わず。漠然と遠い先の事だと思っていたのに、気付けばその年齢が目前に迫り、余り時間の猶予が無くなっている。
四十路を迎える頃の私は、惑いのないおっさんに成れているのだろうか。或いは、性懲りも無く、うかうか過ごして今と相変わらぬ、何の益体も無いおっさんっぷりに磨きを掛けているのであろうか?
いずれにせよ、立派なおっさんには変わりない。