真面目と従順
我ながら真面目な性分だと自負しながら二十年程、社会人生活を送って来た。
あくまで自分がそう思っているだけなので、世間から見れば、私が真面目な人間であると評価する他人は殆ど居ないであろう。
そもそも、真面目とは何なのか。
仕事や生活等の物事に対して、真剣に向き合う真摯な姿の事を表すのだとすれば、私は至って不真面目である。
おおよそ私の生活態度は、他人からはマジメにやれと叱責を受けても致し方の無いものである事も、よく理解しているつもりだ。
真面目と書いて、しんめんもく。こちらの表す所は、本来の姿であるとか、ありのままの姿といった事だそうだ。
私は労働が嫌いで嫌いで仕方がない為、自分の御機嫌を伺いながら、自分に与えられた仕事に向き合い、業務をやり過ごす事で精一杯なので、職場の他人には大して興味も無く、馴れ合ったり、忖度したりといった事に精を出すなぞは、疲れるので真っ平御免である。
そんな自分の感情を包み隠す事なく、態度に滲み出させながらも、社会人として最低限の振る舞いで、何とかやり過ごしている私は、非常に真面目で実直な人間なのでは無いかと思っている。
然りとて、私も気が付けば良い歳こいたおっさんになってしまったが故に、如何に低姿勢で、目がそうは思っていない事を物語っている作り笑顔を振り撒いて、愚痴や不平不満を言わずに業務指示に従って居ようとも、最早従順な奴だと他人に思われないのである。
従順であるというのは、素直である事とセットで成立するものだと思う。
こんな浅はかな私でも、無為に生きて来た様で、その時間の積み重ねの中で、自分なりの世の中の捉え方というものが、ある程度既に出来上がってしまっているのである。
その自分自身がどう捉えるかをさて置いて、社会で何とかやっていく為に迎合している私の姿は、素直とは程遠い、卑屈と諦めに満ちた様相であると、客観的に見て自分でも感じる。
そんな存在は、目上の立場からして行動と結果は兎も角、従順とは思えないし、扱い辛い奴でしか無い。
物を知らない様な、まっさらな可愛げを演出して、世の中を渡って行こうとするには、既に私は歳をとり過ぎて手垢塗れになっている。
真面目で従順なんぞクソ喰らえであると思いながらも、それを望み、強要しようとしてくる組織に対して、微笑みを浮かべつつ、心の中で中指を立てている自分の内側にある真面目を失わぬ様に願いながら、今日という日を私はやり過ごしているのである。
表には出さないが、私はつくづく真面目な人間であると我ながら感心している。