だからなんなんだよ。

何処か居た堪れない心持ちを抱えて暮らす中年の戯言。

人間なんだよな

湿気が多い梅雨の時期はどうにも身体が痛んで辛く、仕事中も物憂げな思索に耽りがちである。

 

生活の為にとあくせく働く。誰の為に。家族の為。金の為。日々の仕事の為か。ああ自分が死んでいく。

 

本来は手段である筈の金が、右から左へと流れながら存在しない価値を膨らますべく、終わりの無い生産活動を強いてくる。

 

真面目に働けと吠えている輩がいる。評価と給料を上げようと躍起になっている様だ。どうやらそういうシステムの中で戦っているらしい。

 

上司と呼ばれる人間のご機嫌を損ねない様に忖度する。上司が役員と呼ばれる人間のご機嫌を損ねない様に忖度する。役員が株主の利益を損ねない様に粉飾する。どうやらこれが仕事と言うものらしい。

 

気が付けば私もこのシステムの中に組み込まれていて、社会人とやらで在る事を求められて暮らしている。

 

この世に産まれ出た瞬間には、天上天下唯我独尊であり何一つ持たずに裸でただ一人の人間としてそこに在った私の筈だが、どうやらそれは記憶違いであり、私はただの社会人として存在している。

 

誰かが誰かの成功を妬んでいる。誰かが誰かの失敗を喜んでいる。そうする事が協調性というものなのかも知れない。

 

誰もが皆、自分の利益とメンツを守る為に必死でもがいている様に見える。そんな人々の姿がなんだかとても滑稽に映る。

 

社会人にはきっとそれらが大切な事なのかもしれない。

 

腹が減るから飯を食う。

 

子孫を残す為に発情する。

 

眠いから寝る。

 

それだけの事を抑えてさえいれば肉体を生存させる事において何の問題も無い筈だ。

 

それなのに人は社会的、経済的に他者と比較して、相対的に自分が優位な状態である事を望み、生存していく上で必要な状態を満たしていてもなお、それらを求めて一喜一憂し続けて止まない。

 

優越感と劣等感を絶えず煽られ続ける相対レースに晒されて、あたかもそれが全てであるかの如く人は錯覚する。

 

仕組まれたシステムの上で他者の評価に翻弄され、まやかしでしか無い価値を求めて踊らされる事を当然だと疑問を持たずに受け入れる事が社会人であるように思えてならない。

 

私はただ産まれたから死ぬまでの間を生きているに過ぎない。

 

あまり社会人らしさを求められても困るのである。

 

早く人間になりたい。

 

f:id:sekitama:20230710232008j:image

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

全ては朝食から始まる

金が無いのである。厳密には全く無い訳では無いのだが、ボンヤリ過ごしていると残高が見る見るうちに目減りしていく。

 

そもそも妻から支給される一ヶ月に二万円の小遣いでは煙草銭にしかならない訳で、毎月の赤字を埋める為のアクションをサボって好き放題に過ごしていれば、金が無くなっていくのは至極当然である。

 

そんな次第で緊縮財政を敷くに至らざるを得ないのであるが、そもそも私が何に金を使うかといっても精々、酒や煙草、サウナに行ったり飲み物や食べ物を買うくらいのものだ。

 

酒と煙草に関しては嗜好品であって、これらを節約する事は私にとって生き甲斐に直結しかねない事であり、精神衛生上とても宜しく無い。サウナも然りである。

 

最も負担が少なく、生活の質も向上する事を期待して日常の買い食いから、まずは緊縮財政のメスを切り込んでいく事にした。

 

私は毎朝の通勤の際セブンイレブンに寄り、一日分の煙草とコーヒー二本、そして朝食の惣菜パンを購入して食べる事が日課であった。

 

この毎朝セブンイレブンに寄るという習慣を無くす事に決め、出勤前に自宅で朝食を摂ってから出発する様にしたのである。

 

朝食を摂ると言っても私は胃腸が弱く、朝からしっかりとした量を食べてしまうと、日中に必ず便意を催して難儀である為、納豆を一パック食べてから家を出る事に決めた。

 

ただ単に納豆をかき混ぜて食べるだけでは味気ないので、納豆に対して戻していないカチカチの状態の乾燥わかめを三対一くらいの割合で混ぜ込んで食べる事にしている。

 

これが非常に良くて、粘り気の中にカリカリの食感と塩気が加わって食べ応えを感じさせてくれる上に、胃の中で乾燥わかめが膨らむ事により時間差で満腹感を与えてくれる為、割と腹持ちが良いのである。

 

更に納豆が持つ栄養に加えて、乾燥わかめが含むカリウムやビタミンK、食物繊維などの栄養素まで摂取が可能で、添加物が豊富なコンビニの惣菜パンを食べている事を考えれば、圧倒的に健康効果が期待出来る。

 

実際にこの習慣を実践し始めてから二週間が経つのだが、常に身体を支配していた不快感が緩和され、一日中感じ続けている気怠さが少しマシになった様な気がする。

 

これらはあくまで私が「その様な気がする。」だけの感想でしか無いが、便通が改善した事と、朝にコンビニへ寄る習慣が無くなり時間と金に少しだけ余裕が出た事は事実である。

 

製造から相当な時間が経っても腐る事が無い、大量の添加物が使用されているコンビニの惣菜パン。

 

しかしそんな惣菜パンが美味しくて好きではあるのだが、そういったジャンクフード的な食べ物を徐々に身体が受け止め切れなくなってきたと思うと、自分が最早若く無いという事実を改めて突き付けられている様で少し切ない気持ちになる。

 

金があるとか無いとかよりも、自分の身体が絶頂期を過ぎ去り、緩やかに下降している事実を感じる時の気持ちと如何に向き合っていくべきなのか。

 

そんな事を納豆を食べながら日々考えている。

 

f:id:sekitama:20230701090953j:image

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

嗚呼、ストロングゼロ。

「貴方はアルコール依存性の可能性が考えられるので専門の医師に一度、相談した方がいい。」

 

就業前に義務付けられているアルコールチェッカーでの検査で頻繁に引っ掛かっていた頃、上司から言われた言葉である。

 

そりゃ、そうですよね。としか言いようが無い。自覚もある分だけ余計にタチが悪い。

 

自分自身が恐らくアルコール依存性である事は判っている。しかし、スンナリと受け入れる事が出来ないだけの重さがこの言葉にある。

 

私はアル中だから、みたいな感じで酒好きな人は自虐気味に自称する事が結構あると思うのだが、この言葉には自称出来る程度の重みしか無い。というよりも、アル中という言葉には、酒好き以上に何の意味も無いのである。

 

他人からアル中と言われても、さしてダメージは受けないのだが、アルコール依存性だと言われてしまうと、その言葉の重さと現実味に思わず狼狽してしまう。

 

かれこれ二十年以上、酒を飲み続けて来た中で、酒と仲良く付き合えている時期もあれば、生活に支障を来す程に溺れている時期もある。定期的に溺れては反省してを繰り返している訳で、これはもう自分のバイオリズムを示すバロメータの様なものだとここ数年は思っていた。

 

どれ程に自制した所で、結果としてまた酒を求めて身を委ねる自分の存在は確かな訳で、上手い事やっているという自負なんてものは所詮、周囲の人が被る無言の迷惑の上で成り立っている砂上の楼閣なのである。

 

家族と社会。これらと自分自身の欲求とを折り合い付けつつ、上手いこと日々をやり過ごす事は、アルコールに魅了された依存性患者にとって綱渡り的で非常に難しい事だ。

 

金銭的にも、時間的にも、あまりに余裕の無い中で、追い立てられる様に暮していると、手軽で、安くて、酔いの早い、強いだけの酒を求めてしまいがちである。

 

家族や社会の一員として、ギリギリの生活を営み続ける為に、自分自身を何とか保とうとして、ストロングゼロを浴びる様に飲む。

 

気が付けば身体はボロボロである。自らを保つ為に飲み続けている筈が、飲めば飲む程に調子が悪くなっていく。

 

そんな事はとっくに頭では理解しているし、身体もよく解っている。それでも尚、私はストロングゼロを求めてコンビニに向かい走る。

 

さも悠然とした面持ちで、颯爽とストロングゼロを買い求めているつもりではあるが実際のところ、私はゾンビの様な様相でストロングゼロを買い求め、店から出た瞬間に獣物の様に勢いよくプルタブを開け、ストローを突き刺して体内にアルコールを啜り入れる。

 

その瞬間だけが、私は何もかもから解放されて幸せであるかの如く錯覚できるのである。

 

こんな物を何処でも気軽に手に入るのは如何なものか。

 

ストロングゼロを片手に、私は憤慨するのである。

 

f:id:sekitama:20230614102450j:image

 

 

 

 

 

便座に座ること早十年

妻と暮らす様になってから、気が付けば十年近くの時間が経っている事にふと気付く。

 

十年前に妻と一緒に暮らす為の部屋を借りた。不動産屋に紹介された、新築ほやほやで八室あるまだ誰も住んでいない1DKのアパートの一室に暮らし始めた。

 

真新しい部屋で、新しい生活を二人で始めるにあたり、私が妻から最初に躾られた内容が、小便を便座に座って行うというものであった。

 

すっかり躾が完了した今となっては、トイレは座るものという認識が私の細胞レベルで染み付いており、その行為を何の疑問も躊躇も無く行う事が出来る様になっている訳だが、男兄弟で育ち、自分の価値観を曲げて相手に譲歩する事が、何か人間関係において下手に出る事であると思い込んでいた二十代後半の私にとって、妻から立ち小便禁止の指示に従う事がある種の屈辱的な事であると思い、当時は非常に反抗したものである。

 

そんな、従うとは負ける事と言い聞かしていた当時の自分であった訳であるが、現実問題として立ち小便は男の沽券に関わると思い、そのちっぽけなプライドを守る為に、必要以上にトイレを汚して掃除に手間を掛けてまで立ち小便を続けていく事に、次第に馬鹿馬鹿しさを覚える様になり、大人しく便座に座って用を足す様になって今日に至っている。

 

最早私の中で、座って用を足す事はそれ即ちお行儀であるという事が染み付いていて、常日頃それに対して何ら疑問も不満も感じる事なく行いながら日常を過ごしている訳であるが、出先のお店なんかでトイレ借りた際に、不意に忘却の彼方へと追い遣った筈の男の沽券とやらが、私の心に囁いて来る事がある。

 

妻の管理下に無く、不特定多数が利用する洋式便器を前にした時、私は妻の躾から解放され、衝動的に便座を上に跳ね上げ、仁王立ちでイチモツを構え、膀胱の筋肉を緩めて小水を放つ。

 

排泄という人間が自然に行う行為を、恐らく最も自然な状態で行なっている状態が、立ち小便なのかもしれない。古来、便器なんぞ存在し得なかった頃、呑気に座り込んで用を足していれば、敵に襲われてもなす術なく、即座に死んでいた事であろう。

 

遺伝子レベルで刻み込まれた、本能に従う自然な体勢で行う排泄は、自分が一介の動物に過ぎない事を再認識させ、ありのままの姿でそこに存在する喜びに全身が歓喜し震え上がる。

 

そんな身体の喜びとは裏腹に、よく躾けられた理性が、私のイメージする狙いを大きく裏切りながら明後日の方向へ目掛け、美しい放物線とは程遠い、無様に枝分かれしながら的を外して溢れ落ちて行く小水に、不甲斐無さを覚え、やがて焦りと後悔を突き付けて来る。

 

事が済んだ後の状況は、まさしく阿鼻叫喚の様相を呈してそこに在る。

 

私は無の表情でトイレットペーパーを手に取り、後始末を行い、丹念に便器を清掃してその場を後にする。

 

妻が言う事は全てにおいて正しくて、私はそれに従っていれば間違い無いのである。

 

f:id:sekitama:20230607061502j:image

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

父親の時計

父親と二人で酒を飲みに出掛ける機会があった。

 

父親が六十歳を迎える御祝いという名目で、私から誘ったのである。


二人きりで差し向かい合って酒を飲みに行く事自体が改めて思えば初めての事で、父親は大層喜んでくれたようだ。


そんな経緯で愉しく飲んでいたのであるが、父親が私の左手首に着けた腕時計を見て、溜息混じりに漏らして来た。


「お前もそろそろマトモな時計を着けたらどうかね。」


私が愛用しているのは、所謂チープカシオと呼ばれる腕時計である。


私は小さくて軽い、時計として必要な性能を十分以上に満たしていて、傷が付こうが紛失しようが何にも思わないでいられるこの時計を気に入って使用している。


そもそも、父親の言うマトモな腕時計とは何を指すのか。


父親は自身が着けている腕時計を外し、私に手渡して、この重量感が堪らないだろうと言う。


私はそもそも腕時計に興味がないし、出来れば着けたく無いと思っている人間なので、重たくて見栄えのする時計を良しとするその価値観は正直な所、全く理解しかねるのである。


どうやらこのCITIZENだかの腕時計は、父親が勤める会社から、勤続25年の記念に表彰された際に貰った物であるらしい。


その事を語る父親の誇らしそうな表情を前に、申し訳無いが私は、自分の人生において最も大切な時間というものを会社に捧げた結果として、御褒美に送られる物が、時間を象徴する時計であると言う事実が、何とも皮肉の様に思えてならないのである。


自分が過ごした時間というものに意味を見出し、それを物質として何らかの形として示したい気持ちに関しては多少はわかる。


そしてそれを自分の息子に見せて、自分が生きて来た時間を肯定し、尊敬されたいと思う気持ちが湧くのも理解出来る。


しかし、所謂「世間」が評価する部分において、価値が低いとされる物を身に着けている他人を蔑み、相対的に自分自身の価値が高いかの如く感じて悦に至ろうとするその虚栄心に関しては、些か軽蔑の念を抱くのである。

 

ともあれ、自分自身のストーリーを時計という物に投影して、満足を覚える事の出来る父親の姿は、それはそれで幸せそうに映ったので何よりである。


男にとって、腕時計、車、靴の三つは自分を武装するのに欠かせない、三種の神器とよく呼ばれる物である。


ブランドや希少性、金額などで計られる価値が高い物を手に入れる事が、自分自身の価値を示す事であると思える精神性の人間は、ある意味で幸せなのかも知れない。


自分などという得体の知れないものの感じる所にこそが価値があると信じているよりも、世間が定めた価値を受け入れて、それに疑う事無く迎合する方がきっと簡単に心が満たされるのであろうと想像する。

 

 


時計の本質は、時間の確認が出来る事。それ以上でもそれ以下でも無いと、私は思っている。

f:id:sekitama:20230524113555j:image

潮干狩りで人間らしさを見つめ直す

先日、職場の行事で潮干狩りに行って来た。

 

子供が小さい間にいつか行こうとは思ってはいたものの腰が重く、今年はイイやで先延ばしにしていたのだが、無料という事で「いつか」のタイミングが遂に到来したと思い参加したのだった。

 

あまり天気が良いとは言い切れない、どんより曇った空模様ではあったが、お陰で暑くも寒くも無い、海水は冷たいが入っていれば時期に慣れる様な、過ごし良い状況の中、潮干狩りを満喫した。

 

思えば潮干狩りを最後にしたのがいつの事であったか、記憶を辿っても思い出せない。

 

朧げに幼い頃、潮干狩りに行った記憶があるのだが、それがいつであったか、家族で行ったのか、学校か何かの行事だったのか、全く定かでは無い。

 

何にせよ、私にとって約三十年ぶりとなる潮干狩りであるのだが、自分自身としては正直面倒臭いと思いながら挑んでいたのだが、海に入って貝を探し始めると、こんなに楽しくて充実した気持ちになる事が有ったのかと、恥ずかしくもこの歳になって気付き、感動してしまった。

 

浜風が運んでくる海の匂い吸い込み、足の裏で砂の感触を確かめ、ふくらはぎに押しては返す波を感じながら、一心不乱に手で砂を掘り、貝を探し出す。

 

初めはなかなか上手く見つけ出す事が出来ずにいるのだが、次第に貝が居る場所の雰囲気や、匂いの様なものが判る気がするセンスが磨かれて来る事が実感出来る。

 

自分の予感を信じて、水と砂の感触に包まれながら手探りで掘り進めていると、常に頭の中に居座っている日常の嫌な事や、ツラい現実の事などは思考から消え去り、自分がこの瞬間に驚く程に無心で居る事に気が付くのである。

 

そこにはただ、海と空と砂浜があり、人としての私は意識として存在せず、貝を探すという目的だけで動かし、砂を掻き分けて埋まっている手先を筆頭に、全身の五感全てが自然と共鳴し、私という存在が曖昧になって溶け出し、その瞬間に私は地球と一体になっている事を喜び、この上ない幸福に包まれて満たされる。

 

人為的な人間社会において、自分が何者であるかなどはまるで関係無い、ただただ其処に居る貝を獲っているだけの、自然の一部である生物として、私は無我夢中で砂を掘り起こし続ける。

 

半日を掛けて、バケツが一杯になる量の貝を獲り、心地良い疲労感に包まれた身体と、溜まった毒素を一掃してクリアになりリフレッシュされた浄らかな心に、圧倒的な満足感を覚えながら帰宅する。

 

自宅に戻り、海水に浸けて潮抜きされている貝を眺める。バケツの中で貝殻の隙間からニョロニョロと顔を出している姿を眺めていると、潮干狩りという平和なレジャーを楽しんでいたつもりがその実、命のやりとりを行なっていたのだという思いに至る。

 

広い海から狭いバケツの中に移され、多くの貝がひしめく中でどうにかして自分は助かろうと身悶える様に蠢く貝達ではあるが、彼らを待ち受ける運命は、無慈悲にも上から眺めている人間に食べられる未来である。

 

ああ、私はいつも生き物を食べているのだという、当たり前の事について、潮干狩りを通して改めて実感させられるのであった。

 

次の日、仕事を終えて帰宅すると、食卓には貝のバター焼きと、貝がたっぷり入ったスンドゥブが並んでいた。

 

それらを私は、いつに無く丁寧に味わいながら、美味しく頂いた。

 

また近いうちに、潮干狩りに行きたいものである。

 

f:id:sekitama:20230519231921j:image

 

 

 

 

 

 

 

 

こだわり

ある日ふと、物事に対する自分のこだわりが、この世を生き辛く感じさせている原因なのではと思った。


そう思って以来、自分の中にあるこだわりを探しては、それが本当に必要なこだわりなのであるのかをじっくりと考察する事を心掛ける様にしてみた。


今の自分を構成する要素として、日々の暮らしの中において、思考や、身の回りにある物、人間関係や世間では常識とされている概念など、かなり多くの事象に対して、自分は無用なこだわりで凝り固まってしまっていると改めて思うのである。


そんな様々な事物に関して、日々何気なく考えを深めていくと、この世のかなりの部分が自分にとってはどうでもいいものであると気付かされる。


そんなどうでもいい事にこだわっている理由は何なのか。自分自身の生い立ちであったり、周囲の環境や、体験してきた事や触れてきた情報。そういったものが複合的に組み合わさって、自分を縛り付けるこだわりという名の呪いになっているのである。


そんな呪いを一つづつ取り払いながら、最後には何にも無い自分で死ねたら上出来であるかなと思っている。


しかし、こだわりという武装を解除して、なんにもない自分でいる事というのは、それはそれで人間にとっては恐ろしい事なのかも知れない。


最後に残るのは生へのこだわり。


断捨離と同じ様に、内観から自分のこだわりを捨てて行くのは、心が軽くなり気持ち良い事ではあるのだが、しかし、それもまた過ぎたるはなお及ばざるが如しである。


人間、こだわる事は生きる事そのものなのかも知れない。

f:id:sekitama:20230513150242j:image