便座に座ること早十年
妻と暮らす様になってから、気が付けば十年近くの時間が経っている事にふと気付く。
十年前に妻と一緒に暮らす為の部屋を借りた。不動産屋に紹介された、新築ほやほやで八室あるまだ誰も住んでいない1DKのアパートの一室に暮らし始めた。
真新しい部屋で、新しい生活を二人で始めるにあたり、私が妻から最初に躾られた内容が、小便を便座に座って行うというものであった。
すっかり躾が完了した今となっては、トイレは座るものという認識が私の細胞レベルで染み付いており、その行為を何の疑問も躊躇も無く行う事が出来る様になっている訳だが、男兄弟で育ち、自分の価値観を曲げて相手に譲歩する事が、何か人間関係において下手に出る事であると思い込んでいた二十代後半の私にとって、妻から立ち小便禁止の指示に従う事がある種の屈辱的な事であると思い、当時は非常に反抗したものである。
そんな、従うとは負ける事と言い聞かしていた当時の自分であった訳であるが、現実問題として立ち小便は男の沽券に関わると思い、そのちっぽけなプライドを守る為に、必要以上にトイレを汚して掃除に手間を掛けてまで立ち小便を続けていく事に、次第に馬鹿馬鹿しさを覚える様になり、大人しく便座に座って用を足す様になって今日に至っている。
最早私の中で、座って用を足す事はそれ即ちお行儀であるという事が染み付いていて、常日頃それに対して何ら疑問も不満も感じる事なく行いながら日常を過ごしている訳であるが、出先のお店なんかでトイレ借りた際に、不意に忘却の彼方へと追い遣った筈の男の沽券とやらが、私の心に囁いて来る事がある。
妻の管理下に無く、不特定多数が利用する洋式便器を前にした時、私は妻の躾から解放され、衝動的に便座を上に跳ね上げ、仁王立ちでイチモツを構え、膀胱の筋肉を緩めて小水を放つ。
排泄という人間が自然に行う行為を、恐らく最も自然な状態で行なっている状態が、立ち小便なのかもしれない。古来、便器なんぞ存在し得なかった頃、呑気に座り込んで用を足していれば、敵に襲われてもなす術なく、即座に死んでいた事であろう。
遺伝子レベルで刻み込まれた、本能に従う自然な体勢で行う排泄は、自分が一介の動物に過ぎない事を再認識させ、ありのままの姿でそこに存在する喜びに全身が歓喜し震え上がる。
そんな身体の喜びとは裏腹に、よく躾けられた理性が、私のイメージする狙いを大きく裏切りながら明後日の方向へ目掛け、美しい放物線とは程遠い、無様に枝分かれしながら的を外して溢れ落ちて行く小水に、不甲斐無さを覚え、やがて焦りと後悔を突き付けて来る。
事が済んだ後の状況は、まさしく阿鼻叫喚の様相を呈してそこに在る。
私は無の表情でトイレットペーパーを手に取り、後始末を行い、丹念に便器を清掃してその場を後にする。
妻が言う事は全てにおいて正しくて、私はそれに従っていれば間違い無いのである。