だからなんなんだよ。

何処か居た堪れない心持ちを抱えて暮らす中年の戯言。

父親の時計

父親と二人で酒を飲みに出掛ける機会があった。

 

父親が六十歳を迎える御祝いという名目で、私から誘ったのである。


二人きりで差し向かい合って酒を飲みに行く事自体が改めて思えば初めての事で、父親は大層喜んでくれたようだ。


そんな経緯で愉しく飲んでいたのであるが、父親が私の左手首に着けた腕時計を見て、溜息混じりに漏らして来た。


「お前もそろそろマトモな時計を着けたらどうかね。」


私が愛用しているのは、所謂チープカシオと呼ばれる腕時計である。


私は小さくて軽い、時計として必要な性能を十分以上に満たしていて、傷が付こうが紛失しようが何にも思わないでいられるこの時計を気に入って使用している。


そもそも、父親の言うマトモな腕時計とは何を指すのか。


父親は自身が着けている腕時計を外し、私に手渡して、この重量感が堪らないだろうと言う。


私はそもそも腕時計に興味がないし、出来れば着けたく無いと思っている人間なので、重たくて見栄えのする時計を良しとするその価値観は正直な所、全く理解しかねるのである。


どうやらこのCITIZENだかの腕時計は、父親が勤める会社から、勤続25年の記念に表彰された際に貰った物であるらしい。


その事を語る父親の誇らしそうな表情を前に、申し訳無いが私は、自分の人生において最も大切な時間というものを会社に捧げた結果として、御褒美に送られる物が、時間を象徴する時計であると言う事実が、何とも皮肉の様に思えてならないのである。


自分が過ごした時間というものに意味を見出し、それを物質として何らかの形として示したい気持ちに関しては多少はわかる。


そしてそれを自分の息子に見せて、自分が生きて来た時間を肯定し、尊敬されたいと思う気持ちが湧くのも理解出来る。


しかし、所謂「世間」が評価する部分において、価値が低いとされる物を身に着けている他人を蔑み、相対的に自分自身の価値が高いかの如く感じて悦に至ろうとするその虚栄心に関しては、些か軽蔑の念を抱くのである。

 

ともあれ、自分自身のストーリーを時計という物に投影して、満足を覚える事の出来る父親の姿は、それはそれで幸せそうに映ったので何よりである。


男にとって、腕時計、車、靴の三つは自分を武装するのに欠かせない、三種の神器とよく呼ばれる物である。


ブランドや希少性、金額などで計られる価値が高い物を手に入れる事が、自分自身の価値を示す事であると思える精神性の人間は、ある意味で幸せなのかも知れない。


自分などという得体の知れないものの感じる所にこそが価値があると信じているよりも、世間が定めた価値を受け入れて、それに疑う事無く迎合する方がきっと簡単に心が満たされるのであろうと想像する。

 

 


時計の本質は、時間の確認が出来る事。それ以上でもそれ以下でも無いと、私は思っている。

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