潮干狩りで人間らしさを見つめ直す
先日、職場の行事で潮干狩りに行って来た。
子供が小さい間にいつか行こうとは思ってはいたものの腰が重く、今年はイイやで先延ばしにしていたのだが、無料という事で「いつか」のタイミングが遂に到来したと思い参加したのだった。
あまり天気が良いとは言い切れない、どんより曇った空模様ではあったが、お陰で暑くも寒くも無い、海水は冷たいが入っていれば時期に慣れる様な、過ごし良い状況の中、潮干狩りを満喫した。
思えば潮干狩りを最後にしたのがいつの事であったか、記憶を辿っても思い出せない。
朧げに幼い頃、潮干狩りに行った記憶があるのだが、それがいつであったか、家族で行ったのか、学校か何かの行事だったのか、全く定かでは無い。
何にせよ、私にとって約三十年ぶりとなる潮干狩りであるのだが、自分自身としては正直面倒臭いと思いながら挑んでいたのだが、海に入って貝を探し始めると、こんなに楽しくて充実した気持ちになる事が有ったのかと、恥ずかしくもこの歳になって気付き、感動してしまった。
浜風が運んでくる海の匂い吸い込み、足の裏で砂の感触を確かめ、ふくらはぎに押しては返す波を感じながら、一心不乱に手で砂を掘り、貝を探し出す。
初めはなかなか上手く見つけ出す事が出来ずにいるのだが、次第に貝が居る場所の雰囲気や、匂いの様なものが判る気がするセンスが磨かれて来る事が実感出来る。
自分の予感を信じて、水と砂の感触に包まれながら手探りで掘り進めていると、常に頭の中に居座っている日常の嫌な事や、ツラい現実の事などは思考から消え去り、自分がこの瞬間に驚く程に無心で居る事に気が付くのである。
そこにはただ、海と空と砂浜があり、人としての私は意識として存在せず、貝を探すという目的だけで動かし、砂を掻き分けて埋まっている手先を筆頭に、全身の五感全てが自然と共鳴し、私という存在が曖昧になって溶け出し、その瞬間に私は地球と一体になっている事を喜び、この上ない幸福に包まれて満たされる。
人為的な人間社会において、自分が何者であるかなどはまるで関係無い、ただただ其処に居る貝を獲っているだけの、自然の一部である生物として、私は無我夢中で砂を掘り起こし続ける。
半日を掛けて、バケツが一杯になる量の貝を獲り、心地良い疲労感に包まれた身体と、溜まった毒素を一掃してクリアになりリフレッシュされた浄らかな心に、圧倒的な満足感を覚えながら帰宅する。
自宅に戻り、海水に浸けて潮抜きされている貝を眺める。バケツの中で貝殻の隙間からニョロニョロと顔を出している姿を眺めていると、潮干狩りという平和なレジャーを楽しんでいたつもりがその実、命のやりとりを行なっていたのだという思いに至る。
広い海から狭いバケツの中に移され、多くの貝がひしめく中でどうにかして自分は助かろうと身悶える様に蠢く貝達ではあるが、彼らを待ち受ける運命は、無慈悲にも上から眺めている人間に食べられる未来である。
ああ、私はいつも生き物を食べているのだという、当たり前の事について、潮干狩りを通して改めて実感させられるのであった。
次の日、仕事を終えて帰宅すると、食卓には貝のバター焼きと、貝がたっぷり入ったスンドゥブが並んでいた。
それらを私は、いつに無く丁寧に味わいながら、美味しく頂いた。
また近いうちに、潮干狩りに行きたいものである。